第11話 ゆっくり時間が流れる日

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 4月2日,私はいつもよりも早く目を覚ましました。布団から飛び起きると,例のめまいが私を襲いました。そこからは慎重に体を起こし,朝食の準備に取りかかります。

 朝からパスタ。今日,検査結果を聞いた後で,私に食欲が残されているかどうか自信がなかったので,朝食をたっぷりとろうという風に考えたのです。

 しかし調理の最中考えるのは,やはり一つのことだけでした。この病気に罹った人は,そのほとんどが長期間入院することになる,大好きな調理はできなくなるだろう,しかも味付けは私の好みのものにはならないだろう,そんなことばかり考えていました。

 いつもより茹で過ぎたパスタにお手製のトマトソースを絡めて,私の調理は完成しました。大好物なのに,味を感じることはできませんでした。パスタは呑み込むこともできるんだということを,私はこの時初めて知りました。

 朝食が終わり洗い物を済ませると,私はシャワーを浴びにバスルームへ向かいました。今日は検査の結果を聞くだけだから,診察はされません。シャワーを浴びるのは,禊を済ませるような気持だったのかもしれません。

 すべてが終わり,いよいよ出発の時間になりました。私は長期の旅行に行く前のように,いつもよりもしつこく戸締まりを確認しました。予定よりも20分も早いけど,まあいいだろう,そう思い出発しました。

 病院のそばの有料駐車場に車を置き,私は病院に向かいました。一歩一歩が重く,時間がゆっくりと流れていきました。

 気がつくと私は診察室にいました。私の前には神妙な表情をした医師と,固く唇を閉じた看護婦が座っています。私は彼らの表情から結果を想定してはいましたが,それでもやはり,彼らの口から実際に結果を聞くまでは分からないと強がっていました。

「加藤さん,先日,熊本大学医学部附属病院から検査結果が届きました。中身の専門的なところは省いてもいいですか?」

 私は医師の目をしっかりと見つめてから頷きました。いよいよです。

第12話 検査結果通知

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「残念ながら…」

ここまで言って,医師は“しまった”という顔をしました。結論は最後に届けないと,と思い直したのでしょう,医師は再度仕切り直しをするように一度椅子から立ち上がり,椅子に座りなおしてから話を再開しました。

「大学病院からの通知には,遺伝子の状態を示す部分と,結果判定の部分がありました。それによると,加藤さんの遺伝子には,やはり異常が認められました。これは…」

 そこまで言って,医師は息を継ぎます。医師と看護婦は,私の様子をつぶさに見ています。まるでここでなにか起こるのだと言わんばかりの緊張した面持ちをして。

「これは必ずしも発症することを意味してはいません。中には一生の間,発症しない人もいますし,明日発症する人もいます。ですから大事なのは,この後,熊本大学医学部附属病院で実際に診察を受けることです」

 医師は結果通知書と私の顔とを交互に見ながら話を続けました。この後,話は,大学病院への連絡のつけ方,仲介をした当病院へは今後どのように関わるのか,そういう内容になりました。

 私は何度も頷きながら,肩の荷を降ろしたような気がしていました。私はふらふらと立ち上がり,医師にお礼を述べました。

 すると医師は信じられないといった表情で私を見つめ,その後看護婦とも見つめ合ったのです。私はわけが分からず困っていると,喉から絞り出すような医師の声が聞こえてきました。

「加藤さん,大丈夫ですか。本当に大丈夫なんですか!」

 いったいなんのことだろう。

第13話 想定外

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 医師は動揺を隠せない様子でした。そして私にこう言ったのです。

「こういう病名を告げられたら,普通は取り乱すんですよ。どうしてあなたは平気なんですか?」

 ああそうか,それで得心がいきました。医師は私が結果を受け容れることができずに暴れだしたりするのではないかと危惧していたのです。看護婦は私が暴れた時のための人員だったようでした。私は笑い,小さく首を振りました。

「いやだ〜とか,なんで俺がこんな目に遭うんだとか,死にたくないとか,皆さん泣いたり叫んだりするんですよ,普通は。あなたのような反応は珍しい」

 私は

「だって,そんなことしたって良くならないでしょう。意味のないことはしたくありませんから」

と話しました。医師はまだ信じられないといった風情で私を見つめています。

「今日はありがとうございました。妻とも相談して,これからどうするか考えます」

と言い,立ち去ろうとする私に,医師は慌てて大学病院への連絡方法を書いた紙を渡しました。そして,できるだけ早く診察を受けるようにと,強く念を押しました。

 私は頷き,再度医師と看護婦に礼を述べてから,診察室を後にしました。私には医師がなぜ大学病院の名前を何度も出すのか,しかも正式名称で呼ぶのか,想像がついていました。

 病院の入り口にある会計で診察料を支払い,私は帰途につきました。なんだ,宣告は受けた後のほうが気楽なものだ,そう思いました。

 医師は信じられないようだったけれど,私は“死ぬ時は死ぬ”と思っています。だから私の財布には,20年以上も前から臓器提供カードが挟み込んであります。もちろん,すべての臓器を提供しますと書いてあるのです。

 もし私の生命が終わりを迎えるのなら,この世での私の役目は終わったということなのだろう。私に未だ使命が残されているとするならば,私は生き永らえるだろう,心底そう思っていました。

第14話 連絡

 私は一度職場に戻り,管理職に報告をしました。校長は話を聞く前から既に覚悟したような顔をしていました。私より年下の教頭は,悲痛な面持ちでした。

「明日から妻に会うために名古屋に行くので,そこで充分に善後策を検討します。ただ現在私としては,東洋医学を頼りたいと考えています」

という私の話を聞いた時,校長と教頭は同時に

「えっ!」

と大きな声を出しました。そんな,本当に治してもらえるかどうかわからないものを頼るなんて…2人の顔は,そう語っていました。

 私は,治療していただきたい医師は決めてあること,その方は日本在住ではないので,長期に休みをいただかなければならないかもしれないことも話しました。また,入学式前の準備に参加することができなくて申し訳ないという話もしました。

 校長はしばし沈黙の後,

「先生方には,早い時期にお話をしなければならないですね。いつがいい?」

と私に尋ねました。予想していなかった話だったので答えに窮していると,校長は

「4月初旬の第一回定例職員会議の中で報告するといいと思うんですが,それでいいですか?」

と話を進めてくれました。

 私に否はありません。私が頷くのを見た校長は,

「こういう話は自分からはやりにくいものだから,先生から聞いた話を私がみなさんに報告するという形にしたらいいと思うんだけど,それでいいですか?」

とかさねて尋ねました。有難いと思いながら承諾すると,校長は大きなため息をついて,

「事態は重大です。まずは先生が少しでも健康になれるように,頑張ってください。それが一番です」

と話されました。

 何をどう話していいかわからない,そんな校長の動揺がよく分かりました。私は管理職二人に礼を言い,旅行準備のために早退しました。

第15話 セントレア

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 私は翌日,機上の人になりました。初めて訪れる名古屋に,心躍っていました。ここではフェイスブックで親しくさせていただいているご家族と会い,そのまま妻と合流することになっていました。

 最初は最寄りの空港まで車を走らせました。この空港からまずは札幌近郊の新千歳空港までプロペラ機に乗り,その後新千歳からセントレアまでの便に合流するのです。

 新千歳空港では,名古屋で会う友人にお土産を持って行こうと,いろんな店を物色しました。途中何度か意識が飛びそうになり,その都度自分がどこにいるのか分からなくなりつつも,なんとかやり過ごしました。

 この頃にはそういう時間帯が一日のうちに必ずあるので,半ばなれっこになっていたのです。

 ようやく意中の品を手に入れた私は,無事搭乗手続きを済ませ,旅客機に乗り込みました。

 旅行中の天気予報は雨でしたが,私は気にかけませんでした。旅行中に殆ど雨にあたったことはないのです。しかしなぜか今回は目に入ったので,折り畳み傘を携行だけはしました。

 天気予報では結構激しい雨が降るような話だったのですが,飛行機はほとんど揺れることもなくて快適でした。

 はじめて利用するセントレア空港に,私は少し興奮していました。今まで東京方面と大阪方面の空港ばかり利用していたのですが,中部にもこんなに大きな空港があるというのは驚きでした。

 空港を出てすぐに見えた名鉄に乗り込み,目的地まで急ぎます。1時間ほど経ったでしょうか,ようやく目的の駅に着き,宿を目指します。

 この時,雨が降り始めました。私は自分の運の良さも今日限りなのかな,と思いました。単に雨が降ってきた,ただそれだけなのに,随分とナーヴァスになっているのでした。翌日見る予定のソメイヨシノを楽しみに,私は眠りに落ちました。

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