第21話 職員会議

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 私はすぐさまメール返信をしました。お尋ね内容への返答のためです。それを受ける形で4月8日,私に新たなメールが届きました。そこには,禁止食物とにんじんジュース飲用の指示がありました。

 また同日2通目のメールには,毎日2度月見草オイルを飲用すること,無農薬のダージリンティーを1日一杯飲み,食事は味付けなしの蒸しジャガイモのみとすることなどが指示されていました。

 そして,学校給食はストップすることという指示も出ました。私はいよいよ始まったと,気の引き締まる思いでした。

 明けて9日,新年度初めての職員会議がやってきました。会議の冒頭,校長から私の病状についての話がありました。

「みなさん,今日は非常につらい話をしなければなりません。それは,加藤先生の病気についてのことです。事態は重大です」

 職員室の空気が一瞬にして固まりました。なんとなく知ってはいても,それが職員会議で話されなければならないほど重大なものだとは,誰も考えていなかったのです。

 校長は私の病状,余命,症状などについて丁寧に話してくれました。そして最後に,

「加藤先生からみなさんに,伝えることはありますか?」

と話を振ってくれました。

 私は

「みなさん,私の現状は,校長先生がおっしゃったとおりです。余命5年ほど。でも私は,死ぬつもりはありません。体にメスをいれることも嫌です。だから私は,東洋医学を頼ろうと思っています。東洋医学では,手術をせずに治療していただけます。西洋医学で手術を試して,うまくいかなかったら東洋医学で,とはなりませんから,私はまず東洋医学を頼り,それでダメなら手術を受けようと思います。これから様々な面でご面倒やらご心配やらおかけしてしまいますが,どうぞよろしくお願いします」

と話し,頭を下げました。職員室を覆った重い空気は,その後も変わることがありませんでした。

第22話 万全を期して

 運命が動き出した職員会議から明けて10日,黄先生のお弟子さんから,またメールが届きました。旅行中の調理についてでした。

 5月に私が治療(施術)を受ける際,ジャガイモ・ニンジン食が途切れてしまうので,旅行中もそれらの調理が出来る機材を紹介していただいたというわけです。これで私は,“逃げ場がなくなったな”と感じました。腰を据えて食事療法に取り組まねば!

 またそのメールでは,私が東京にうかがう日程が決まりました。5月13〜15日です。これは運動会練習開始直前という,学校としては非常に忙しい時期なのですが,同僚たちからはどんなサポートもするという力強い励ましを受けていたので,私は躊躇なく予約を確定することができました。

 その日私は,ジャガイモを茹でて食べ始めました。1つ目は旨く感じましたが,2つ目以降では味を感じることができませんでした。

 元来料理好きな私です。これからは調理もできず食事の楽しみも奪われるのかと思うと,涙が溢れてきました。

 しかしもう,やると決めたことです。後には引けません。私は弱い人間ですから,前日の職員会議上で情報を明らかにすることで退路を断ちました。私の食事による治療は,衆人環視の下におかれたのです。

 私は翌日,それまで使っていた調味料や食材に別れを告げました。治療が成功した暁には,また調理や食事の楽しみが戻ってくるかもしれないのですが,その日の私は冷静さを欠いていました。

 もう一生,ジャガイモしか食べられないと思い込み,食材一式をヒステリックに投げ捨てたのです。

 あとから同僚に聞いた話ですが,この日以降私からは笑顔が消えたのだそうです。すぐにでも挫折しそうな私を救ったのは,とても悲しい報せでした。

第23話 急を告げる

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 4月10日以来,私の生活はがらりと変わりました。最も大きな変化は食事の内容ですが,給食を完全ストップしたことも大きかったです。なにせ,目の前にいる子どもたちには説明をしなければなりません。私は学級朝の会で,

「先生は病気のため,給食を食べることができなくなりました。頑張って治しますので,みんなも応援してください」

と話しました。子どもたちは沈痛な表情で私を見つめていましたが,誰も話しかけてはきませんでした。私の厳しい表情が,子どもたちを遠ざけたのかもしれません。

 朝,目覚めると,絶望感が私を浸します。また1日が始まる。何をしても必ず立ちくらみが襲う,1日がやってきてしまった,と。

 私は目が覚めてからも,なかなか起き上がることができません。数分,いや数十分経った頃,ようやく意を決して起き上がります。たちまち襲うめまい。トイレに移動することだけで精一杯の毎朝ですが,なんとかして蒸しジャガイモを作り,にんじんジュースを準備せねばなりません。私は2時間ほどかけて,それらの準備を終えます。

 気がつけばもう,出勤時刻をとうに過ぎています。私は慌てて家を後にします。

 4月13日(日)は,全校参観日でした。授業,PTA総会,懇談会と,なんとかやり過ごし,私は早めに帰宅しました。日曜日に勤務があったので,翌月曜日は休日になります。倒れるように布団に飛び込んだ私は,すぐに意識を失ったようでした。私が目を覚ましたのは,スマートフォンが着信を知らせる音が鳴り続けたからでした。

 夜の10時過ぎ。こんな時刻にかかってくる電話は,良いものではありません。それは父からの急信でした。ここ1週間で,妹が逝きそうだという連絡でした。

第24話 前夜

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 翌14日は休日でしたが,妹のことを考えて一日が過ぎました。私たち兄妹は仲がよく,今まで一度も喧嘩をしたことがないほどでした。なにをしてよいか分からず,強く動揺していました。

 次の日は勤務日です。私はいつものようにのろのろと起き上がり,いつものように時間ギリギリに出勤しました。この日は通常よりもめまいを覚える回数が多く,

「今頃,妹も頑張っているんだな」

と思ったことを覚えています。

 実は妹も,私と同じ病でした。半年ほど前から入院しており,病状は悪化していました。私が血液検査を受け,治療を開始しようと決断したのは,妹のことが大きく影響していました。

 誤解を恐れずに言えば,私は自分の生命が終わるということになっても,さほど動揺はしないと思います。今までの人生に満足しているし,まだ私に“使命”が残されていれば生かされるのだろうと信じているからです。

 私が治療を始めた理由,それは父をはじめ親戚縁者に対して,私は完治できたということを示す必要がある,それが私の責務だと強く感じたからなのです。

 放課後私は何度も電話をかけようとして,その度に止めました。妹の病状は気になりましたが,父の声を聴くのが辛かったのです。今夜がヤマ場になる,なぜか私はそう感じ,いつもならニンジンとジャガイモの買置きをするために向かう生協には行きませんでした。

 午後9時過ぎ,父から電話がありました。喪服を用意してくれ,父はそう言いました。危篤だと言われたと,父は言葉を選びながら私に告げました。

 娘が自分よりも早く逝ってしまう。父の心痛を考えると,私は何も言えませんでした。私は妹の最期に間に合うよう,翌日から休暇を取り,大阪に向かうことを決意していました。

第25話 大阪へ

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 翌4月16日(水),私は出勤した後,諸手続きを済ませて急いで空港に向かいました。直近の空港では大阪行きの便が少ないので,新千歳空港まで車を走らせることにしました。車に乗り30分ほどしたところで,恐れていた事態が起こりました。

 運転中にもかかわらず,体調が悪化してきたのです。今まではどんなに調子の良くない時でも運転は問題なく行えていたのですが,事ここに至って,ハンドルを握るのも辛く視界もぼやけるという,最悪の事態が私を襲ったのです。

 普通ならすぐに運転を諦めたでしょう。しかしこの日の私は,歯を食いしばってこらえました。私には,ある確信があったのです。

 私と妹とは,不思議な絆で結ばれていました。一方の体調がすぐれなくなると,もう一方も同じようになるのです。それは子どもの頃から続く不思議な現象でした。遠く離れて暮らしていてもそれは変わらず,妹が発症した後も続いていました。

 だから運転中に私を襲った急変は,妹が生命の炎を消すまいともがいているのだということが実感されたのです。ここを乗り越えなければ妹に会えない,私を衝き動かしているのは,その想いだけでした。

 1時間ほど運転を続けると,次第に症状が収まってきました。目的地まであと数時間,私は運転に集中していきました。

 空港に着いた頃,症状は全く消えていました。私は安心して搭乗手続に向かいました。早めに手続を終わらせ,保安検査場をクリアして搭乗口に進みました。まだ1時間ほど余裕があったので,私は椅子に腰掛けて仕事を始めました。

 こういう時には単純作業に没頭するのが一番です。私は暫くの間作業を続けていましたが,ある瞬間,体が動かなくなってしまいました。

 それは今まで経験したことのない激痛でした。ここまで頑張って歩を進めてきたけれども,飛行機搭乗は諦めざるをえない,そう思うほどの。まだ寒さの残る新千歳空港で,私は大量の汗にまみれていました。

 何分経ったのでしょうか。私は急に痛みから開放されました。その瞬間,悟ったのです。妹は逝ってしまったのだと。空虚感に襲われた私の耳に,搭乗案内のアナウンスが流れてきました。私は立ち上がり,ゆっくりと飛行機に向かいました。

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