第6話 臨時休業

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 一日を布団に縛り付けられたように過ごした私は,翌朝自身の体調が回復していないことを確認して,欠勤の連絡を同僚にしました。すると,学年でインフルエンザが猛威を振るっており,スキー学習は中止になったこと,午後からは学年閉鎖になることが告げられました。

 そうなると,精神的に余裕が生まれました。なんとか起き上がり,時間をかけて除雪をすること。そしてコンビニエンスストアに行き,弁当を買うこと。これが今するべきことでした。

 しかし,私の体力は充分ではありませんでした。いつもは30分間もあれば終わる除雪は,4時間かかっても半分ほどしか進みませんでした。なんとか車を道路に出すことができるほどになると,私は除雪を諦めました。

 そして着替えをし,這うようにして車に乗り込みました。最も近くにあるコンビニエンスストアに到着した私は,時々床にしゃがみ込みながら,30分ほどもかけて,選んだ商品をレジに持っていきました。そこでまた,恐れていたことが起こってしまいました。

 レジで代金を告げられたはずなのに,金額が理解できません。訝しむ店員に,金額を紙に書いてくれるように頼んだ私は,泣きそうになりました。こんなに情けないと思ったことはありませんでした。

 なんとか代金を払い,車に乗り込み運転を始めた私は,車窓に流れる風景を見て,戦慄を覚えました。今まで見たことのない光景が眼前に広がっていたからです。

 思わずブレーキを踏んだ私は,自宅とは反対方向に車を走らせていたことに気づきました。私はもうダメかもしれない,そう思いました。

 しかし帰宅後に食事を済ませた私は,元気になりました。体に栄養が回っていないと思考がストップしてしまう。考えようとしてもネガティブな考えしか浮かんでこない。そういう恐ろしい経験をした日でした。

 でも,こんな状況なのに,私はまだ自分がインフルエンザなのだろうと信じていたのです。

第7話 血圧

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 翌日は,血液採取予定日でした。昨日よりは体が動くようになっていた私は,早めに車に乗り込み,隣町に向けて運転をしました。
 あと10分ほどで病院につく,その時電話がなりました。私は車を路肩に止め,対応しました。

 病院からでした。降雪のために飛行機が飛ばないので,血液を大学病院に運ぶことができない,だから今日は血液採取を取り止めるとのことでした。非常に残念でしたが,しかたのないことでした。私は改めて日を設定してもらい,帰路につきました。

 せっかくだから,インフルエンザの検査をしてもらおう。私がそう思ったのは,自分の住む町に車が入った頃でした。私は病院に行き,検査をしてもらいました。

 検査途中に,自分で血圧を測るように言われました。私は血圧を測り,愕然としました。最高血圧が72,最低血圧が30…こんな数値,見たことがありませんでした。私の通常値は,最高血圧が117,最低血圧が72です。今まで数十年間崩れることのなかったものがおかしくなっている,その瞬間,私はようやくインフルエンザなんかじゃないかもしれないということに思い至ったのです。

 検査の結果,案の定私からはインフルエンザウィルスは発見されませんでした。痕跡もなかったので,治癒したのではなくて最初から罹っていなかった可能性が高い,医者は私にそう告げました。

 私はそれから職場に向かいました。管理職ならびに同じ学年担当の同僚に今日の血液採取が延期されたことを報告しましたが,血圧については話すことができませんでした。

 その後3日間を休養に充てた私は,ようやく体調を元に戻すことができました。その後は大きな変調はなかったので,なにごともなく2週間が過ぎました。そしていよいよ,血液採取の日がやってきました。

第8話 不審

 その日は快晴でした。ようやく血液採取ができる,私は約束の時間より30分以上も早く病院に着き,順番を待っていました。

 実際は血液採取をするだけなのですが,病院というシステムの運営上,私は病院の患者という扱いになりました。形式的なものですが,医師による問診が始まりました。私はどのような経緯で血液検査を依頼するに至ったのかを説明しました。ひと通りカルテが作成されると,私は血液採取をしてもらうことになりました。

 医師にお礼を言って診察室から出ようと立ち上がった瞬間,目の前が真っ白になり,その場に倒れてしまいそうになりました。医師は驚き,採血場まで看護婦を一人つけてくれました。

 採血自体はなんの問題もなく順調に終わりました。病院を後にし,職場に向かいました。休んでいる間の仕事がたまっているので,それを片付けねば。

 職場に戻った私を待っていたのは,補欠授業でした。高学年の担任が体調不良で休んだため,代わりに授業を担当することになったのです。私の担当学年は学年閉鎖のため児童登校がなかったので,私が授業をすることになったのです。私はできるだけふらつかないように気をつけながら,理科の授業を行いました。

 放課後,〈6年生を送る会〉に向けて,会場準備が行われました。脚立に登り,壁の装飾をするのです。数名の先生方が脚立に登っていましたが,私は恐ろしくて登ることができません。登っている途中でふらついたら,どうなるか分からないからです。

 普段は誰よりも早く脚立に登る私を知っている同僚たちは,私を不審な目で見つめていました。校長が私に声をかけ,私を伴い校長室に移動しました。

 校長の話す内容は分かっていました。私の病気について,どのタイミングで先生方に話すのが最良か,話は1時間に及びました。

第9話 卒業式を控えて

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 時は3月中旬を迎えていました。小学校はもうそろそろ,卒業式のシーズンです。私はなんとか,与えられた仕事をやり終えることができましたが,3月に入って,心が晴れることはありませんでした。校長との話し合いは結論が出ませんでしたし,罹患しているかどうかの確証も持てないでいたからです。

 校長との話し合いではっきりしたのは,同僚にきちんと病状を報告しなければならないということだけでした。しかし罹患状況が確定しないことと,年度末の慌ただしさの中で皆の心に波風を立てたくないという思いもあって,同僚への周知はなかなか進みませんでした。

 このころ妻は一時帰国をし,全国を飛び回っていました。本来であれば北海道に来た時に再会したいところでしたが,来道は3月下旬で,卒業式前後でした。私は妻と名古屋で会うことにしました。名古屋入りは4月4日(金)で,その日ならなんとか休みを取ることができそうだったからです。

 3日後はいよいよ卒業式。在校生が一同に会して,卒業式練習が行われました。私は子どもたちの座席の後方に座りました。練習は滞りなく進み,後半に子どもたちが立ち上がる場面がやって来ました。私も一緒に立ち上がったのですが,直後,目の前が真っ白になり,すぐに座り込んでしまいました。

 子どもたちがざわつき始め,周囲の先生方も心配そうに声をかけてくれました。私は同僚を手で制してなんとか立ち上がり,椅子の背もたれに手をかけて身体を支えました。本当は何も見えていなかったのですが,笑顔を作り,周囲を見回している風を装いました。

 なんとか練習は無事に終えることができました。しかしこの日以来,しゃがんで立ち上がる際には100%ふらつくようになってしまいました。以前にはふらついても足を踏ん張っていればそのうちに回復していたのですが,この日を境に,どんなに待ってもふらつきが収まることはなくなってしまいました。

第10話 結果通知前夜

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 なんとか卒業式を終え,学校は春休みを迎えました。子どもにとっては休日ですが,教師にとっては非常に密度の濃い日々になるのが年度末です。私も例外ではなく,諸帳簿の整備を始めとして,様々な雑務に追われる日々でした。

 私が最も厄介だと感じていたのは,教室の引越でした。新年度に私に割り振られた教室は2階の中央にありました。現在は1階の端の教室なので,荷物の運搬には結構な距離を移動する必要がありました。

 他の同僚は,スムーズに教室の移動を終えていきます。私はまる2日かけて,移動を終わらせました。

 それでなくても時間がないのに,4月2日は血液検査の結果を聞きに,隣町まで出かけていかなければなりませんでした。また翌3日は,名古屋に向けて旅立たねばなりませんでした。私は4月1日の深夜までかかって,なんとか仕事をやり終えました。

 帰宅した私を,激痛が襲いました。右足指が攣るのです。どんなに工夫しても痛みは引かず,私は布団に横になって耐えることしかできませんでした。

 そうしているうちに体が震えてきました。痛みに耐えていると,どうしても明日の検査結果のことを考えてしまうのです。

 日々の暮らしが一変した3月,私はもう発症していることは間違いないだろうと思っていましたが,それでも,ことここに至っても,一縷の望みを捨てきることはできませんでした。

 私は今まで,運の良い男だと言われ続けてきました。旅行で雨に降られたことは殆どない。私の勤務校は運動会もスキー大会も遠足も晴れ続けてきた。いつもは2時間近くかかるリムジンバスに間違えて乗り込んだ時も,その日だけ高速道路がなぜか空いていて,1時間ほどで目的地についたおかげで電車に乗り遅れなかったこともある。今回もきっと大丈夫だ,そんな風に自分を慰めているうちに,私は眠りに落ちていきました。

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